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大谷恭子さん讃歌 | 福島みずほ公式サイト(社民党 参議院議員 比例区)

越境していく女性、女性という枠、弁護士という枠を大きく超えてエネルギッシュでパワフル、とことん、正直な人。きっぷのいい人。障がい者や若者、女性のために愛と情と熱を持って頑張る、傑出して、見事な弁護士、女性でした。

大谷恭子さんが74歳で亡くなった。
困ったときや相談したいことがあると、電話をして大谷さんが何というか聞いていた。困ったときの大谷さん頼み。大谷さんは何はともあれ応援するよというときは全力で応援をしてくれた。何度助けられたかわからない。彼女は、私はあなたを応援するよとなったら、何が何でもとことん応援をしてくれた。
1998年、私が社民党から立候補する時は選挙の事務局長をやって応援してくれた。あらゆる支援、応援に本当に感謝をしている。
そんな大谷さんが亡くなって本当に寂しい。

大谷さんに初めて会ったのは、私が司法試験受験中のときである。私のパートナーがいろんな素晴らしい女性弁護士を紹介してくれたのである。私の司法試験受験の励みにもなると思ったのだろう。
型にはまらず、自由で率直で飾らず、情熱的で頼りになる親分肌、姉御肌、きっぷのいい女だった。おしゃれで、音楽が好きで、人生を楽しむところがあった。下町の太陽。おおらかで明るくて、涙もろい。多田謠子弁護士が20代の若さで急逝したときのお葬式で大谷さんは号泣していた。寂しがり屋でもあった。それは彼女が大きな器でたっぷりの情愛を持っている人だったからだろう。

大谷恭子さんは、まず第1に、何と言っても優れた刑事弁護人だった。大谷恭子さん自身、もともと社会を変える実践運動をやっていて、その延長線上で弁護士になったわけだから、当初やりたかったのは、公安事件、街頭闘争といった刑事事件だったと言っている。

永山則夫さんのケース、永田洋子さんのケース、金井康治さん自主登校裁判、目黒区児童虐待死などのケースを担当している。

私は『グレートウーマンに会いに行く〜それぞれの人生と活動にリスペクトを込めて』という企画をYouTubeのみずほチャンネルで行っている。その配信を面白いと現代書館の人が言ってくれて、第1回から第22回までの22人分は本になった。現在もこの企画は続いている。

その企画で大谷恭子さんに会いに行った。
そこで、大谷恭子さんは、「弁護士は誰でもそうだと思うんだけれど、事件に出会って、事件に育てられるよね」と語っている。

大谷さんが、死刑になり処刑された永山則夫さんの遺骨を引き取りに行ったとき、「印税がもし入ったらペルーの子どもたちへ」という遺言を聞かされた。だから、それで永山子ども基金を作り、20年以上ペルーの子どもたちにチャリティーコンサートをしながら奨学金を送り続けている。そういうところはまさに大谷さんの情の熱いところだ。

第2に、ジェンダー平等の取り組みである。
まず鉄連(日本鉄鋼連盟)の裁判である。
大谷恭子さんが言うには、それまで女性差別の裁判は、賃金差別によるものがほとんどで、仕事で差別されているという視点がなかった、仕事で差別されている結果、賃金差別が生じるということで、初めてそこを問題にした裁判を起こしたという。

永田洋子さんの弁護人になったのも、女性差別的なひどい1審判決を受けて女性の視点が必要だという市民の声に押されて2審から担当をしたと聞いた。

大谷恭子さんは、北区、東久留米市をはじめたくさんの自治体の男女共同参画協議会等の委員となり、自治体における男女共同参画を推進した。

第3に、金井康二さんとの出会いから広がっていく障がい者差別撤廃の運動であり、裁判である。

私のパートナーと大谷恭子さんが、長崎の障がい児を普通学級への裁判を一緒に取り組んでいた関係もあり、私も障がい児を普通学級への合宿やいろんなことに参加をしたことがある。

2009年、鳩山政権の時に鳩山総理が障がい者制度改革推進本部を作り、私は障がい者問題の担当ということで、副本部長になった。そして障がい者制度改革推進会議を作り、その中で、障害者基本法改正法案、障害者総合福祉法案、障害者差別解消法案を作っていくことになる。

そのときに、大谷恭子さんに障がい者制度改革推進本部の構成員になってもらったのである。大谷さんには、障害児支援合同作業チームの座長を務めてもらった。

大谷さんは有能で果敢な弁護士であったけれども、同時に有能で根性のあるネゴシエーターでもあった。
インクルーシブ教育について、とにかく現場を変えようと、文部科学省の役人を私の事務所に呼んで、大谷さんと一緒に話し合ったことがある。大谷さんは硬軟おり混ぜ、いろんな形で説得をしていた。人間力で突破しようとしており、その有能さはとても秀でていた。現状認識と現状を変えたいという思いとパワーで説得力を持ち、頑張れる人であった。

審議会の中でも本当に頑張ってくれた。大谷さんの良さや能力が大いに発揮された場面である。
だから大谷恭子さんは頑張る弁護士という面だけではない、さまざまな能力や顔も合わせ持っていた。

大谷さんの遺作の一つに『分離はやっぱり差別だよ。人権としてのインクルーシブ教育』(現代書館刊)がある。
ずいぶん前に大谷さんがパンフレットに書いてある文章を読んだことがあるが、分離が差別なのだということを明快にきっぱりと言っていた。

第4に、「若草プロジェクト」の活動である。大谷さんは2016年から若草プロジェクトの代表理事をしてきた。
困難な女性、特に若い女性の支援をするために立ち上げたもので、秋葉原の近くにも少女たちの居場所を作り、チラシを配ったりしているという話を聞いていた。

この若草プロジェクトの立ち上げには、瀬戸内寂聴さんが大いに関わっているという話を聞いた。永田洋子さんの情状弁護をお願いできないかと突撃でお願いをして引き受けてくれたのが瀬戸内寂聴さんであり、それからずっと2人はとても仲良しだったと聞く。

当時、厚生労働省の事務次官として頑張っていた村木厚子さんにも相談し、困っている若い女性がたくさんいるので、瀬戸内さんにも支援してもらいたいという話になって、瀬戸内さんが応援してくれ一念発起し立ち上げたのである。

シェルターを準備したり、大変だったようだが、大谷さんは亡くなるまで、若草プロジェクトにエネルギーと情熱を注ぎこんでいた。

瀬戸内寂聴さんと大谷さんはとても気が合ったようである。

例の『グレートウーマンに会いに行く』のインタビューでは、大谷さんは「瀬戸内さんとは本当に楽しくはなしをさせてもらったよ。彼女は男の話を聞くのが大好きだったから(笑)」と言っていた。「歳の差を超えて、わたしは彼女との会話がとても楽しかった」とも言っていた。

太宰治の『斜陽』には、「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」という有名な言葉がある。

瀬戸内さんは、『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』で伊藤野枝を、『余白の春』で金子文子を、そして『遠い声』で菅野須賀子を書いている。人間は恋と革命のために生まれてきたのだという言葉通りの伊藤野枝さん、金子文子さん、菅野須賀子さん等の恋と革命に生きた女たちの系譜の中に、大谷恭子さんは位置づけられると思う。
だから、とっても瀬戸内さんと気が合ったのだと思う。
大谷さんは、瀬戸内さんに話すと瀬戸内さんはすぐ書いちゃうのよねと笑って言っていた。話が合ったのだ。

第5に、チカップ美恵子さんのアイヌ民族肖像権裁判をはじめ、さまざまな差別をなくす裁判を手掛けてきた。
大谷さんは、2000年に『共生の法律学』(有斐閣刊)を出版し、2002年に『共生の法律学新版』(有斐閣刊)を出しており、2014年『共生社会のリーガルベースー差別とたたかう現場から』(現代書館刊)を出している。
『共生の法律学』では、感染症、LGBTQ+、障がいのある人、外国人など今につながるさまざまなテーマを取り上げている。「私はあなたの味方をするわよ」という大谷さんの良さがまっすぐ出ているし、現在の包括的差別禁止法を作ろうという動きとつながる先進的なものである。

私はどうなるのよ、私はどう立ち回ろうか、私はどう立ち回ったら良く思われるか、損か得か、自分のポジションをどう取るのかといったことを考えない女性は、わたしが出会った中では、土井たか子さんと大谷恭子さんだった。
もちろん他にもそういう人がたくさんいるかもしれない。しかし、私が土井さんと大谷さんを尊敬するのは、わたしはどうなるのよ、どう立ち回ったら良いのかということを考えない人であるということも大きいように思う。

大谷さんは大きな器でたっぷりの愛情があり、だからこその寂しがり屋であり、いろんなものにつき動かされて、どんどん素晴らしい活動をしていた。つき動かされて行動し、付き合い始めたからには、最後まで責任を取らなければならないといった義侠心もあって、行動していた。
そこには他の人にどう見られるか、世間の人にどう見られるか、よく思われたい、セルフプロデュースをかっこよくしたいといったものは微塵もなかったように思われる。

私たちは自分を守るために、何らかの殻をかぶり、他人と距離を持っていたり、用心深く付き合ったりすることがある。
社会の中で、ある種の役割を果たしていたりすることがある。
思えば、大谷さんはそんな事は全く関係ない人だったのである。
だからどんどん踏み込み、どんどん付き合い、役割もポジションも関係なく、とことん自分に正直で、殻なんて初めからなかったのである。そつなくこなすということをしなかった。
そういう人は意外と少ないと思う。

だからこそ大谷恭子さんはずば抜けていて面白い。
そんな交流が少しでもできたことをとてもラッキーだったと思っている。

大谷さんとは、神楽坂女声合唱団という小林カツ代さんが作った合唱団でも一緒に過ごしたことがある。
大谷さんの自宅には大きなグランドピアノがあって、芸大の声楽科の人がピアノの先生で大谷さんはトルコ行進曲などを弾いていた。

おしゃれで、音楽が好きで、グルメでもあった。

自分の内なる思いに忠実にまっしぐらに生きることができた大谷恭子さんの人生は素晴らしい。

大谷恭子さんは、「基本、人間が好きなんじゃない?永山君の事件以来、遮蔽板に手を合わせて、『またね』って挨拶するんだよね。ぐちゃぐちゃになってなおかつ苦しんでいる人間はすごく深いし、なんとかならんかなってことも含めて、その出会いに感謝している。人間が面白いと思っているんだよ」と語った。

重いものを抱えている人と一緒に生きようとするとあまりに重かったり辛かったりしていやになっちゃったりすることもあるけれど、こんなことを言える大谷恭子さんは本当に凄い。

下町の太陽。
見事に生きた愛と情と熱の女。
計算なんかしない女。

たくさんの人を愛してたくさんの人に愛された大谷恭子さん。
本当にありがとう!
私は、私たちは、あなたを忘れない。

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